2007年度第2学期 「哲学史講義」「ドイツ観念論の概説」       入江幸男
           第11回講義(2008年1月16日)

 
■参考文献
ノール編『ヘーゲル初期神学論集』I、II、久保昭、中埜肇訳、以文社
ディルタイ『ヘーゲルの青年時代』久野昭、水野建雄訳、以文社
ルカーチ『若きヘーゲル』生松敬三、元浜清海訳、(ルカーチ著作集第10,11巻)白水社
ルカーチ『歴史と階級意識』城塚登、古田光訳、白水社
金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』以文社
 
 以上の本は、解説書というよりも、研究書です。若きヘーゲルの研究は、ディルタイに始まりました。ルカーチのヘーゲル研究は、ヘーゲルとドイツ観念論を思想史の中に位置づけて論じようとするとき、今でも最高の作品だと思います。金子武蔵のヘーゲル研究は、今でも到達不能な高みにあります。これらの優れた仕事は、彼らの歴史的な背景によって可能になったものであり、我々には、また我々の時代状況を踏まえたヘーゲル研究が可能になっていると思います。

 
           §11 愛と相互知識
 
ベルン期のヘーゲルは、カントの自律思想でキリスト教を解釈しようとしていた。そこには、ジャコバン主義の挫折があったとも言われている。しかし、フランクフルト期には、カントの道徳論に批判的になり、「生」や「愛」を原理とするロマン主義的な立場に向かう。しかし、その後「愛による運命との和解」では、市場の所有関係を克服できないと考えて、「愛」に変えて「理性」を原理とし、「相互承認」にもとづく国家を考えるようになる。
 
1、ヘーゲルによる「愛」の理解
 ヘーゲルは、愛について次ぎのように述べている。
 
「・・・愛が、他の人間たちの中に自己自身を見出し、あるいはむしろ自己自身を忘れて、自分の実存から外に出て、いわば、他者達の中に生き、感じ、活動するかぎりにおいて、愛は理性に似たものである。これはちょうど、理性が、普遍的に妥当する法則の原理として、すべての理性的存在者の中で、英知界の同じ市民として、自己自身を認識するのと同様である。」(「民族宗教とキリスト教」"Volksreligion und Christentum" 1793年夏-1794年に執筆、(HW,Bd.1,S.30)
「愛は、鏡に向かうように、また我々の本質のエコーに向かうように、同じものに対してのみ生じる。」(断片「道徳性、愛、宗教」"Moralitaet Liebe Religion"17977月以前に執筆、(HW,Bd..S.243)
「真の合一、本来的な愛は、生きた者の間にのみ生じる。それらは、力において等しく、互いに対して生き生きしたものであり、どちらの側からも互いに対して死せる者ではない。愛は、すべての対立関係を排除する。・・・・ 愛は感情である。しかし、個別的な感情ではない。・・・・愛において分離した者があるが、しかし、分離した者としてあるのではなくて、むしろ一つの者としてあり、生きた者が生きた者を感じるのである」(断片「愛」”Die Liebe”第一稿、179711月頃執筆、(HW.Bd.1,S.245f)
 
 ヘーゲルが、「愛」について、「他の人間たちの中に自己自身を見出す」とか、「我々の本質のエコーに向かう」とか「合一」とかを語るときに強調されている特徴は、イギリスの道徳感情学派が主張した「共感Sympathie」の特徴に似ている。彼らは、愛の根底に、それに先行するものとして共感があると考えるようである。そして、この共感というのは、意図せずに生じるものである。共感が生じる根底には、さらにそれに先行するものとして相互覚知があるように思われる。
 
2、愛の合一Vereinigungと相互知識
 今仮に、「Aさんが、Bさんを愛している」を「LaB」と表現することにしよう。とする。そうすると<AさんとBさんが互いに愛し合っている>という関係は、どのように表現すべきだろうか。まず、
   aBLbA
と表現できるだろう。しかし、これだけでは充分ではないだろう。
 ヘーゲルが愛の関係において重視するのは、次ぎのような認識である。
  「愛する者たちは、一つの生きた全体である。」HW1,246
では、愛する者たちが「一つの生きた全体」をなすというのは、どういうことだろうか。そのためには、互いに相手を愛しているだけではなくて、そのことが相互知識になっていなければならないだろう。
   aBLbAK”ab(LaBLbA)
 愛にかぎらず、共同性というものが成立するためには、共同していることについての、相互知識というものが必要である。
 
 相互知識というものは、いわば共同の知であって、相互知識が成立しているときには、そこに何らかの共同性があるといえるだろう。しかし、そのような共同性だけでは、ひとつの全体をなすことにはならない。たとえば、ここでAさんとBさんの共通の友人Cさんが、二人が愛し合っていることを知っていて、そのことをAさんBさんも知っており、つぎのような相互知識が成立しているとしよう。
   aBLbAK”abc(LaBLbA)
このような場合であっても、AさんとBさんは「一つの生きた全体」をなすのであって、Cさんはその中には入っていない。つまり、AさんとBさんが「一つの生きた全体」になるには、相互知識以外の要素が含まれているということである。では、それは何だろうか。
 
 愛における合一が、愛の告白(行為遂行的発話)や行為によって、成立したとしよう。そこで成立しているのは、
    aBLbAK”ab(LaBLbA・「aとbは、一つの全体をなす」)
ということであろう。
 では、これで愛の関係を表現しきれているだろうか。そうではないだろう。ここでは、LaBLbAK”ab(LaBLbA・「aとbは、一つの全体をなす」)3つの出来事が独立しており、相互に影響を与えないかのように表現されている。少なくとも、これらの出来事の間の影響関係が何も明示されていない。(契約による集団の構成については、このような側面を考える必要がないのかもしれない。そして、この点が、契約による共同体と自然的共同体論の重要な違いになるように思える。)この点について次ぎに考えよう。
 ここで必要なのは、共感という事態の表現であろう。
     
注2 愛は感情(欲望)である。
(ア)今仮に
   LaB
がなりたつ、つまり、aさんがbさんを愛しているとしよう。
   KaLbA
という知を得れば、aさんはうれしい。このことは、
   LaB=WaLbA
であることを意味している。しかしこれがいえるならば、論理的には代入によりさらに、   
   LaBWaWbLaB
がいえる。しかし、これは実際になりたっているのだろうか。これを検証するには、
   KaWbLaB
という知をえたとき、aさんが喜びを感じるかどうかを検討すればよい。このとき、aさんは、喜びを感じるだろう。では、さらに
   LaBWaWbWaLbA
については、どうだろうか。これが実際に成り立っているかどうかを検証するには、
   KaWbWaLbA
という知を得たときに、aさんが喜びを感じるかどうかを検討すればよい。このとき、aさんは、喜びを感じるかもしれないが、それをほど強い喜びを感じるとはおもえない。(もちろん、この知は、不快感を引き起こしはしない。)つまり、感情は、あまり多くの論理階型を区別しない。むしろ、論理階型を無視した融合を引き起こす。
 
 (イ)ところで、aさんは、
   LaBLbAKaLbA
これが成り立っているときに、それで満足しはしないだろう。aさんは、
   K”ab(LaBLbA)
という相互知識を求めるはずである。その証拠として、その相互知識が成立したときに、aさんには、喜びが生じるだろう。
   WaK”ab(LaBLbA)
愛には、このような欲望が含まれている。つまり、愛は、互いに愛し合っていることの相互知識をもとめている。
 ところで、aさんは、
   Ka「aさんとbさんが一つになっている」
によって、喜びを感じるだろう。ところで、aさんとbさんが一つになっているためには、そのことが相互知識になっているということが、成立しているはずである。つまり、上の知が成立するときには、次ぎの知が成立しているはずである。
   K”ab「aさんとbさんがひとつになっている」
つまり、我々はこのような相互知識を獲得したときに、喜びを感じるのである。
 
 
注3、知的直観と愛の違いは、知的直観では、対象との合一だけが生じて、生の二重化が生じないという点である。
「ヘーゲルが提示する愛は、たとえそれが「感情」であるにせよ、シェリングのいう「知的直観」ではない。愛は感情として自己意識であり、現実感であって、無限者に「自己を没入する」知的直観ではない。自己意識を超えた無限者が語られる場合にのみ、そこへの超出的飛躍としての知的直観が必要となる。へーゲルにおける生はかかる超越者ではない。愛は、たとえば「愛着」として、経験的性格を失うことはありえない。ここでも我々はヘーゲルのシェリングに対する独自性を見出し得るのである。ヘーゲルの独自性とは知的直観のような直接性ではなく、むしろ生の自己展開に愛が媒介をなすという媒介の思想である。この媒介という思想によってヘーゲルはドイツ観念論の歴史に初めて自己の特色を刻しえたのである。」(高橋昭二著『若きヘーゲルにおける媒介の思想(上)』晃洋書房、p.222
 
3、「相互承認」とは何か。
 ヘーゲルは『精神現象学』で、自己意識について次ぎのように述べる。
「自己意識は、それが他の自己意識に対して、即且対自的に存在している場合に、またそのことによってのみ、即且対自的に存在する。すなわち、自己意識は、承認されたものとしてのみ存在する。」141
 
この入り組んだ関係は、後の所で、もうすこし詳しく述べられている。
「自己意識が直接に他の自己意識であり且つない、ということ、また<自己意識が独自存在者Fuersichseindes(自分だけで存在している者)としての自己を廃棄(止揚)し、他者の対自存在Fuersichseinの中でのみ、対自的である>ことによってのみこの他者が対自的である、ということが、自己意識に自覚されている。」143
 自己意識は、他の自己意識が対自的(自己意識的)であることによってのみ、自己意識的である。他の自己意識も、同様である。だとすれば、私が自己意識であるのは、<私が自己意識的であることによって、他者が自己意識的になる>ことによってである。つまり、二つの自己意識は、互いに相手が自己意識になることを媒介にして、自己意識になるのである。そこで、つぎのように語られる。
「各人は、他者にとっての中間項Mitteである。それによって、各人が自己を自己自身と媒介し、推論結合するのである。各人は、自己と他者にとって、対自的に存在している直接的な存在者Wesenであり、この存在者は、同時にこの媒介によってのみ対自的である。彼らは、相互に承認しているものとして、互いに承認している。」143
 
 『エンツュクロペディー』(1830)では、相互承認によって「普遍的自己意識」が成立すると言われ、これは次ぎのように説明されている。
             
普遍的自己意識とは、他の自己の中で自己自身を肯定的に知ることである。その各々の自己Selbstは、自由な個別性として絶対的自立性を持っている。しかし、その直接性ないし欲望を否定するために他者から自己を区別しておらず、普遍的自己意識であり、客観的である。各々は、またつぎのような仕方で、相互性Gegenseitigkeitとしての実在的な普遍性を持っている。各々の自己は、自由な他者の中で自己が承認されているのを知っているが、それは彼が他者を承認し、他者が自由であることを知っているかぎりにおいてである。」(§436
 
「自己意識の普遍的な反映Wiederscheinen、つまり自己をその客観性において、自己と同一な主観性として知っており、それゆえに普遍的に知っている概念は、すべての本質的な精神性(家族、祖国、国家)の実体の意識の形式、またあらゆる徳(愛、友情、勇気、名誉、名声)の実体の意識の形式である。」(§436
 
ちなみに、ニュルンベルク期の講義草稿„Bewußtseinslehre für die Mittelklasse“  (1809ff)では、「反映」について、つぎのように言われている。
 
「自己意識は、このような彼の本質的な普遍性に従って、かれが他者の中にその反照を知る(つまり、私が、他者が私を自己自身(他者自身)として知る、ということを知る)限りでのみ、実在的である。」(§39HW.Bd.,S.122)
 
ここで「他者の中にその反映を知る」といのは、言いかえれば「私が他者を承認していることを他者が知っていることを私が知っている」ということになるだろう。そして、「普遍的な反映」とは、このような反映が相互的であるということであり、互いに相手を承認するだけでなく、そのことが相互知識になっているということであろう。ヘーゲルは、「相互知識」という言葉を使っていないが、我々は、「相互知識」という言葉をつかって解釈することによって、ヘーゲル自身がうまく説明できないと考えていた点、をより判明にすることができるだろう。
 
「この普遍的自由という状態においては、私は私自身へ反省していることによって、直接に他者へ反省している。そしてまた逆に、私は私を他者へ関係させることによって、直接に私を私自身へ関係させる。それゆえに、我々はここで精神が種々なる自己へ・・・・・・強力に分割されているのを見る。この関係は、全く思弁的な種類のものである。そしてもし人々が、思弁的なものはある遠いもの・ある把握できないことであると思うならば、そのときは人々はそういう意見が無根拠なものであることを確信するためには、ただあの関係の内容を考察しさえすればよい。」(§437 Zustz
 
 ヘーゲルは、ここで相互承認の関係が、「思弁的」であって、悟性では「把握できないこと(Unfaßbares)であると考えている。我々は、相互承認という関係の核心であり、彼が「思弁的なもの」と呼んでいるものの一部分は、「相互知識」という概念で理解することができるのではないか、と考える。
 ヘーゲルは、相互承認によって、「我々である我、我である我々」あるいは「精神」と呼ばれる一つの共同体が成立すると考える。
 相互知識は、ある種の知である。しかし、それは私の知ではないし、また相手の知でもない。しかし、それは私の知でもあるし、相手の知でもある。これはまさに、ヘーゲルのいう思弁的なものである。ここには、共同主観的な一つの知が成立している。しかも、ここに成立しているのは、個別的な主観の単なる共同性だけでなくて、その共同性が客観性をもつようになっているといことである。人間の共同生活というものは、家族であれ、国家であれ、つねに共同していることについての相互知識なしにはせず、言いかえると、相互知識は、共同生活において客観的なものになっているのである。そして、このような相互知識こそが、ヘーゲルのいう人倫性の核心(少なくともその一部)を為すものであると解釈できるだろう。次ぎの箇所は、そのように読めるのである。
 
「思弁的なもの、または理性的なものおよび真実なものは、概念または主観的なものと客観態との統一の中に存立している。この統一は、今問題になっている立場においては明かに現存している。この統一は、人倫性の実体――特に家族すなわち異性愛(ここでは、あの統一は特性の形式をもっている)・祖国愛(国家の諸々の一般的目的および利益をこのように意欲すること)・神に対する愛の実体――を形成する。」(§437 Zusatz
 
 ちなみに、金子武蔵は『精神の現象学への道』(岩波書店)において次のように指摘している。
「なおソフォクレスの訳文から察せられるのは、ヘーゲルがアンエルケンネンにはシュングノイア(ともに知ること)を当てていることであり、したがってそれはまたシュンエイデーシスの訳語として生じたゲヴィッセン(全的に知ること)とも同義語であるということであろう。」(201)
 ヘーゲルは、『精神現象学』のなかで引用したソフォクレスの文章のドイツ語訳において、συγγνοια をanerkennen と訳しているのである(Vgl. GW9,S.256)。これは、συγγνωμη (fellow-feeling with another, allowance for him, pardon, forgiveness, a claim to forgiveness, excuse.)と同義であるが、元来の意味は、共に知るということである。つまり、彼がAnerkennenというときには、相互知識という意味が根底におかれていたと解することが出来るのである。